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思い出エピソード

キジ小屋はサロンだった

インタビュー

花粉の少ない森づくり運動担当
郡司 正隆 氏

郡司 正隆 氏の写真

 平成の初めぐらいまでは、都の林業行政関係の職場では毎年の御用始めの日に記念撮影をしていました。投稿のものは昭和最後の年63年のその記念写真です。(なお、昭和はこの1年後の64年1月7日までありましたが、その時は昭和天皇がお隠れ寸前でお正月のお祝い行事はありませんでしたので。)入都3年生の私と1年生の市村さん(現:森の事業課)のみが現在でも現役職員で、中には草葉の陰となられた方もあると思います。なお、市村さんには、投稿写真を取り上げていただいてことを話しておきましたが、ほかの方々には全くお話ししていません。写真にある建物は、昭和の初めごろに建てられたと聞いていました。間違いなく「多摩産材」による木造の事務所(本館)入口です。田舎の分校のような建物で、当時すでに半世紀を過ぎていましたが、躯体は丈夫であり、きしみや腐れもありませんでした。
 最寄りの武蔵五日市の駅で「東京都農業試験場林業分場まで」と言っても発車できるタクシーはありませんでした。発車のキーワードは「キジ小屋」でした。この施設のそもそもの所管は警察関係とのことでした。危ない飛び道具「猟銃」の管理を所管していた警察関係で、ついでに狩猟による山野のキジやヤマドリの減少を食い止めるべく人工的にそれらの鳥を繁殖・放鳥する機関であ ったとのことです。その後、このような鳥獣保護行政は、現在の産業労働局の所管になり、さらに平成になってから環境局に引き継がれました。そして、この「キジ小屋」にあとから試験研究機能が付与され、現在の研究センター緑化森林科となっています。ですので、この写真は現在の緑化森林科のカンブリア紀の姿とも言えます。約一世紀を経て、「キジ小屋」は連想ゲームの地層を重ね、現在の緑化森林科を露出させています。大昔から変わらず、林業関係の研究部門は少人数・小規模ですが、個性的な研究員の創意工夫の連続が、地層のグラデーションをつくっていると思います。
 この当時、日の出の試験林はまだ出来立てで、森林というより苗木山でした。時々、水平対向エンジンの爆音とともにまっ黄色な独逸製のスポーツカーが横付けされました。試験林の下刈を受託していた林業事業体のお兄さんです。丘の上のお屋敷にお住いの大山主(大森林所有者)の御子息でした。お正月のドライブでは「新幹線が後からついてきた」と話していましたが、真偽のほどは不明でした。「キジ小屋」は借地で、その大家さん(地主)であるご主人も日々のようにお茶飲み話に「キジ小屋」に立ち寄られていました。やはり、大山主で御自分のお山の見回り後に来られていました。「キジ小屋」は単なる都直営試験場ではなく、地域の林業家(森林所有者や林業関係者)のサロンのようなところでした。すでに「誰にとっても林業が儲かる時代」は終わっていましたが、「林業を営むことが、地域のリーダーとしての責務」であった「最後の良き時代」であったかも知れません。そして、今でも森林を所有することは、その地域の自然環境はもちろん、結果、人の生活まで支配してしまうことに変わりはありません。(そのため、我々のような公的な活動が必要と理解しています。)
 もう少しの笑顔が森林・林業関係者に戻ってくれば、地域の林業も森林もそこそこ循環(自転)できる力を取り戻せると私は思います。

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