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野菜編(5)の概要

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 ページID:0064721 更新日:2023年4月4日

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野菜編(5)

 府立農事試験場ではウドの軟化(なんか)栽培に関する試験研究は明治35(1902)年に始められました。その後、大正8(1919)年にはウドのほかにミツバやミョウガなどについても試験が始められました。これらの野菜が試験研究の課題に取上げられた背景には、当時の食文化として、これら野菜が料理の添え物としての需要が多かったことに関係しています。

 東京の産業其一(農業)によれば、大正8(1919)年から大正15(1926)年までのウド、ミツバの生産事情をみると、ウドの生産額は北多摩郡や豊多摩郡で多く、栽培面積は最も大きいときで74.1町歩(734千平米)ありました。ウドの栽培は露地栽培が主でしたが豊多摩郡の吉祥寺周辺では土窖(どこう:露地圃場に掘った小規模な穴倉)を使った軟化栽培が広がっていました。しかしながら、住宅地の拡大と連作障害が栽培に大きく影響しその面積は減少していきました。ミツバの生産額は北豊島、荏原、南足立、南葛飾、南多摩郡の順に多く、栽培面積が最も大きかったときでは121.9町歩(1,208千平米)でした。栽培形態は需要の増加と共に生産額の増加もみられ軟化栽培に促成技術を組み合わせた軟化促成栽培が増えました。これらの野菜のほかに添え物として需要の多かったものにシソがありました。シソの生産額は南葛飾郡で最も多く、金町、奥戸、水元では青葉の芽紫蘇(めじそ)を主に、南足立郡では穂紫蘇(ほじそ)を促成品として出荷する促成栽培が増加する傾向にありました。

 農総研にはウドの細密画が16点、シソが1点のほかアスパラガスが4点残されています。ここで紹介する細密画はそれらのうちの一部です。

 明治35年に初めて行われたウドの軟化栽培は、土窖と日よけ藁(わら)を使って新芽を軟白化(なんぱくか)させる方法をとっていました。ミョウガやミツバもウドの軟化栽培と似た方法で同様の試験が行われました。アスパラガスの軟化栽培は3年目以降の若芽を土寄せする現在と同じ方法で軟白化させました。他方シソは促成栽培の試験が行われ、明治40(1907)年に建てられた木框(きわく)フレーム(図1)が使われました。シソは1月中旬に苗を定植したあと本葉6・7枚で抽苔(ちゅうだい)させ6~9cmの花穂が咲く2月上旬から中旬にかけて収穫する促成品でした。

 これら添え物野菜の軟化品や促成品の荷造りには、見た目を良くするための工夫がなされていました。シソは10本から15本を一把にして小麦稈(こむぎかん)で結束します。一把の中心は長めのシソを配置して円錐状になるようにします(図2)。図2の細密画には穂紫蘇のほかに蕗(ふき)と菜豆(なまめ:インゲンのこと)の促成品の荷造り姿が描かれています。菜豆は、50本ないし100本を一把にして青葉に包み荷造りされました。ウドは25本を一束として2列に並べて藁でしばられ荷造りされました。

 木框フレーム    木框フレーム

 図1 木框フレーム               図2 穂紫蘇、蕗、菜豆の促成品

引用・参考資料

・東京府立農事試験場.農事試験成績略報:第二.

・東京府.東京府の産業(農業)其一園芸.昭和4年.p70-72,78-79.

・東京府立農事試験場.業務功程:大正8年度.

・東京府立農事試験場.芽紫蘇と穂紫蘇の促成栽培.園芸之友.昭和2年10月号.p516-518.

・高木輝治.吉祥寺の土當歸促成栽培.日本園芸雑誌.大正13年2月号.p46-49.

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