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3人の絵師(画家)の概要

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 ページID:0067656 更新日:2023年5月4日

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3人の専属絵師(画家) ~細密画に残されたサインと落款印~

 

【要約】東京府立農事試験場時代に、数値表現できない農作物の形状・断面構造や色合いなどを、実物大で正確に科学的見地から表現する手法として細密画が描かれてきました。細密画は、当時まだ正確性・保存性が十分でない写真に代わる有効な手段であったので、試験研究の記録として残すには最適で、また農業関係者にとって農作物の形状などの特徴を知るための貴重な情報源でもありました。農総研が所蔵する細密画は900点に及び、当時の農事試験場には細密画を描くことを専門にする3人の絵師(画家)がいたことはわかっていました。最近の調査から、一人は水島南平であると特定、残る二人は農事試験場嘱託職員であると推定されました。

 

 細密画を描いた専属絵師(画家)が3人いたことは、細密画に残されたサインと落款(らっかん)印からわかっていました。既に農総研だより特別号の中で述べたところですが、一人は水島南平であると特定、残る二人は農事試験場嘱託職員の山村孝太郎と吉田 力であると推定されました。彼らが描いた細密画と試験研究との関わり、またその細密画の特徴と人物特定・推定に至った経緯について解説します。

 本編でご紹介する細密画は所蔵品の一部です​

 

【水島南平が描いた細密画】

 水島氏の細密画には花きのほかに家畜(かちく)や家禽(かきん)の細密画もあり、その数は70点になります。それらの細密画にはアルファベットのN.Mizushima.や漢字の水島サインが残されています。花きを描いた細密画は、スイレン8点とフリージア12点、シクラメン15点、サクラ1点で、これらは大正9(1920)年から大正12(1923)年の4年間に描かれたものです。大正元(1911)年度から昭和11(1936)年度までの業務功程(ぎょうむこうてい)には、試作品種の温室栽培・木框栽培(きわくさいばい)​(木框フレームを使った促成栽培のこと)・露地栽培における栽培法や用途などを研究して新種の蒐集(しゅうしゅう)優良種の選出および採種、また希望者には種子と苗・球根の配布をして農業者の参考に供すると同時に指導することを目的とする試験があります。その試験品種の中にスイレンとフリージア、シクラメンが含まれています。それらの細密画には、番号が記されています。例えばスイレンの細密画(図1)には下中央にNo.14とあります。この番号の品種について書かれた記録帳が残されています(図2)。品種名は「Newton」、花型は尖(手書きスケッチの花型)、花色は淡桃、大きさは巨大輪、そして8時とあります。記録内容は細密画の花色、花型とほぼ同じです。8時は恐らく開花時刻のことでしょう。スイレンは決まった時刻に開花する品種があるので、水島氏は8時前に開花を待ち構えて「Newton」の細密画を描くために農事試験場に通ったのでしょう。また、昭和9(1934)年度業務功程にある睡蓮(すいれん)リストから33品種あったことがわかりますが、水島氏の細密画にはNo.35、43、45もあるので昭和9年以前には33品種以上のスイレンが試作されていたと思われます。フリージアの品種名あるいは関係する番号は、細密画(図3)のうら面に手書きでR.Robinetta(ロビネッタ)F.No12と書かれています(図4)。シクラメンの細密画にはおもて面に漢数字番号はありますが、品種名が書かれた記録帳も業務功程の記録もないので品種名を特定することはできません。したがって、図5の紅第拾貮號だけでは詳しくはわかりませんが、これら細密画に残された番号や品種名は、多くの品種が混同しないよう担当研究員と打合せをして試験記録として細密画に書かれたと思われます。また、シクラメンの細密画には花と葉だけが数本描かれ、さらに花が下を向いて内部が見えない場合には花器内部だけを別に描き加えられているので植物図鑑のような構成となっています(図5右上)。

 最後に、家畜と家禽の細密画について、ウシが3点、ニワトリが30点(内ヒナ3点)、キジが1点残されています。それらの写生年は大正10(1921)年から大正12(1923)年の3年間です。大正9(1920)年に日野市豊田に設立された東京府種畜場(元東京府立農事試験場第一分場)から依頼を受け、飼育されているニワトリなどの細密画を描いたと思われます。ウシの細密画は縦横サイズが67×100cmと農作物の細密画に比べて約3倍になります(図6)。ニワトリの細密画は縦横サイズが50×66cmです(図7)。これら家畜・家禽の今にも動き出しそうな表現力、またスイレン、フリージア、シクラメンの細密画にみる、特徴を的確に捉え表現する水島氏の高度な技術が感じられます。

図1スイレンNo.14     図3フリージア          図5シクラメン                      ​

図2記録帳の一部      図4細密画うら面          ​                                           

図6ウシ         図7ニワトリ

 

【山村氏が描いた細密画】

 山村氏が描いた細密画には写生年月日と山村寫(やまむらしゃ)(山村が写生したことの意)が残されています。野菜と花きを描いた細密画が77点残され、昭和17(1942)年から昭和20(1945)年の間に描かれたものです。野菜の細密画が最も多く56点、花が20点でそのうち9点は野草、薬用作物(ヒマ)が1点です。野菜の中では根菜類が多く、サツマイモ、ジャガイモ、サトイモだけで32点あります。食糧増産期の昭和18・19(1943・1944)年に行なわれたサツマイモ試験研究の早掘り試験などで扱われた品種として、「東京金時(とうきょうきんとき)」(図8)や「沖縄100号」があります。また、図9はサツマイモ黒斑病(こくはんびょう)の病害図で、黒斑病防除試験は農事試験場病虫部が取組んだ試験で昭和13(1938)年から19(1943)年までの7ヵ年にわたる長期間の試験でした。業務功程には被害が甚大なので適切な防除法を調べることを目的とするとあり、当時のサツマイモの重要性がうかがえます。サトイモの品種比較試験では、「愛知早生(あいちわせ)」(図10)や「ミガシキ」が扱われました。野菜の品種改良試験の中で8ヵ年の年月をかけて昭和16(1941)年に育成されたトマト品種「東農二号(とうのうにごう)」(図11)があります。農事試験場の特別報告書には、新品種のことが力強く紹介されていることは野菜編(2)でご紹介したところです。そのほかに野草の細密画には、ノゲシやノボロギク(図12)があります。昭和2(1927)年から17(1942)年まで山野に自生する草木の利用法を研究して主に園芸的価値の​あるものを選ぶことを目的にする野草利用試験が行われていました。ノボロギクはその試験の中で集められた植物であったと思われます。

 ご紹介したサツマイモの病状断面部やトマト断面構造は植物解剖学を熟知して描いているものです。山村氏の細密画は水島氏の細密画と同じように極めて高い技術で描かれています。山村氏の細密画の特徴は、写生年月日が部位ごとに明記されていることです。その他に山村氏の細密画には全て府立農事試験場の押印がないことに気づきます。これは山村が在職した期間と関係があります。昭和17(1942)年は東京府立農事試験場から東京都(立)農事試験場に変わる移行時期であったので、東京府立農事試験場の押印がないと思われます。

図8サツマイモ東京金時 図9サツマイモ黒斑病 図10サトイモ愛知早生

     図11トマト  図12ノボロギク

 

【吉田氏が描いた細密画】

 果実と花き、野菜を描いた151点の細密画が残されています。その内訳は、果実91点、花き42点、野菜18点です。吉田氏の細密画には吉田の落款印と東京府立農事試験場の押印、割印はありますが写生年月日が書かれているものは数点です。そのうちの1点は、四三.一.三〇と書かれているので、明治43(1910)年1月30日のことです。君子蘭(くんしらん)を描いたもので、吉田氏が描いた最初の細密画です(図13)。もう一つは柿(品種名未記載)でおもて面には大正8(1919)年4月と書かれています。また、大正四(1915)年八月起・標本用寫生畫覺(ひょうほんようしゃせいがおぼえ)のなかに吉田氏の細密画に合致するものとして洋ナシ品種の「ピーパーリー」(図14)やカキ品種「甘世界一(あませかいいち)」(図15)など10点がありました。それらの写生年月日は大正4年8月14日から12月13日の間に描かれたものでした。また、大正2(1913)年より南多摩郡の浅川母樹園でサクランボとリンゴの試験栽培を農業者に委託していますが、大正11(1922)年以降にはみられなくなりました。それら果樹の栽培は東京府には適していないということで廃止になったようで、その当時、委託栽培されていたリンゴ品種として「旭(あさひ)」(図16)があります。また、花きでは、テッセン(図17)は業務功程の記録から大正初期にのみ試作、洋蘭(図18)は昭和10(1935)年から17(1942)年の間にのみ試作されているので、この期間に描かれたものと思われます。これら業務功程などの記録との照合から、吉田氏は府立農事試験場の明治後期から昭和期までの30年間近くにわたり細密画を描くことに携わってきたと思われます。

  図13君子蘭   図17テッセン   図18洋蘭

図14ピーパーリー 図15カキ甘世界一 図16リンゴ旭             

【3人の画家の特定・推定】

  • 水島南平について

 細密画にあるアルファベットや漢字のサインから、その作者を水島南平と特定できたのは水島南平遺作集が手掛かりとなりました。この作品に載せられている植物画の水島南平サインと農総研所蔵の細密画にあるサインが合致したからです。ご息女が書かれた遺作集のはじめには、父南平の画力に対する世間の評価が非常に高かったことが綴られています。また、牧野富太郎著の昭和15(1940)年発行牧野日本植物図鑑の序では、水島南平に対して高い評価をしていることが牧野富太郎によって書かれています。牧野富太郎は線画と彩色画も自ら描く植物画家としての一面を持つ植物分類学者で、その牧野富太郎から高い評価を受けるほどの水島南平が、その当時に府立農事試験場で農作物や動物の細密画を既に描いていたことは大変興味深いことです。

  • 山村氏と吉田氏について

 山村氏が描いた細密画は昭和17(1942)年4月から昭和20(1945)年12月までです。東京都農業試験場60年史の中に昭和17(1942)年3月31日から昭和21(1946)年3月31日まで嘱託職員として在職していた山村孝太郎がいます。山村孝太郎の在職期間と山村氏の写生年月日は合致しています。さらに、退職と同年の昭和21年から美術協会『光風会(こうふうかい)』に入会している人物に同姓同名の山村孝太郎がいます。これらのことから、この3人の山村は同一人物の画家山村孝太郎で、農事試験場では細密画を描くことを業務の一つとする嘱託職員として雇用されていたと推定されました。

 吉田氏のことを同じく60年史の中に探すと、明治42(1911)年5月17日から昭和17年まで嘱託職員として吉田 力が雇用されています。吉田 力は昭和17年に退職し山村孝太郎に細密画の業務を引継ぐ形になったのではないかと考えています。

 以上、3人の画家が描いた細密画と試験研究との関わり、その細密画の特徴と人物の特定・推定について述べてきました。3人の中で吉田 力は府立農事試験場のほぼ全期間にわたって果実、花き、野菜の細密画を描いてきました。山村孝太郎は東京府立農事試験場から東京都(立)農事試験場に変わる移行期に野菜、花きの細密画を描いてきました。水島南平は、農事試験場が中野から立川に移る前の最後の4年間に花きと家畜・家禽の細密画を描いてきました。

 この3人の描いた細密画以外にも作者を特定できない細密画が多く残されています。いずれも東京の農業研究の貴重な資料として、今後も引続き大切に管理していきます。

引用・参考資料

・東京府立農事試験場.業務功程:大正元から昭和11年度まで.

・花菖蒲・English Iris・グラジオラス・睡蓮花型,色,図(研究記録).

・東京府立農事試験場.委託試験書類.明治41年3月.

・東京府立農事試験場.大正四年八月起・標本用寫生畫覚.

・水島静子. 水島南平遺作集.平成11年8月.189p.

・牧野富太郎著.牧野植物図鑑.北隆館.昭和15年10月.p5.

・東京都農業試験場.東京都農業試験場60年史.昭和34年12月.p27-33.

 

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